道具のデザインについて考えてみた! |
NTTドコモが都内にて3月19日から27日までの9日間に渡って少々変わった展示会を開催しました。展示会の名称は「少し先の未来を想像するデザイン『想像する余白』展」。
なんとも漠然とした印象の展示会名ですが、実際に展示されていたものも非常に「抽象的かつ直感的ではないもの」でした。
それは決して悪い意味ではなく「まったくもって素晴らしく良い意味で」です。都心にありながらその喧騒から少し遠く離れた東京ミッドタウンの小さなギャラリースペースには何が展示され、何を伝えようとしていたのでしょうか。
感性の原点からテクノロジーの特異点を俯瞰する連載コラム「Arcaic Singularity」。今回はドコモが考えるデザインの在り方とともに、「インダストリアルデザインよりも前のデザイン」を考察します。
■素朴なマテリアルに込められた想い
本展示会の趣旨や本質を考える前に、まずはNTTドコモがこれまでに行ってきたデザイン展の経緯について簡単におさらいしておく必要があります。
デザインに注力している大手通信キャリアと言えば真っ先に思い出すのがKDDI(au)ですが、NTTドコモもまた古くから通信端末のデザインに注力してきました。
「ライフデザイン」もまたデバイスのデザインから創出される生活様式であると考えるならば、NTTドコモは20年以上も前から人々のライフデザインを考え、製品を世に送り出してきた企業とも言えます。
2010年頃からはプロダクトデザインの方向性や同社としての取り組みを示す目的で展示会を定期的に開催しており、携帯電話やスマートフォン(スマホ)など、同社が製品化したい、あるいはこんな生活様式を提案したいと考えるデバイスのプロトタイプなどを展示してきました。
そのような経緯の先で、今回の展示会は少々趣が違っていました。
展示された模型を見ても、その説明書きを読んでも、何のガジェットであるのか、どのように扱われるべきデバイスなのか、一瞬では判断しきれないものばかりです。
失礼を承知で忌憚なく言ってしまえば「小学生の夏休みの工作」のような、むしろそれよりももっとプリミティブな「素材」が並べてあるようにしか見えないものもあります。
恐らく、それがモバイル製品や家電製品のプロダクトにつながり、ひいては私たちの生活スタイルの未来につながるものであると直感できた人は、それほど多くなかったのではないかと想像するのです。
しかしながら、これらの【よく分からないもの】を見て歩きながら、筆者は「ああ、これが見たかった」と、強い感銘を受けたのです。
■見る者に語りかけてくるデザイン
普段の私たちの生活は、人工的にデザインされたもので埋め尽くされています。スマホ、テレビ、冷蔵庫、食器、机、PC、家、自動車、衣服、ベッド、筆記具、カバン、お菓子の袋。デザインされていないものを探すほうが難しいかもしれません。
「人が作ったものなのだからそんなの当たり前じゃないか」と思うかもしれません。しかしながら、今回の展示はまさにその「当たり前」に一石を投じるものだったのです。
人が作ったものでありながら「これは何だ?」と考えさせるもの。人工的なデザインなのに想像させるもの。「こういう使い方です」と提案・提示するデザインではなく「こういう使い方に適した形とは何だろうか」と、見る者とともに考えるデザイン。まるでデザイン自体が自らの存在理由や存在すべき形を試行錯誤しているかのようなデザイン。
まさにそれが「想像する余白」を持ったデザインだったのです。
もっと簡単な言葉で表現するならば、ここに展示されているものはすべて「製品化を前提としていないもの」です。
これまでのNTTドコモもそうでしたし、KDDIのようなデザイン志向の強い通信キャリアもそうでしたが、基本的に私たちの目に触れる場所へお披露目されるデザインは、何かしらの道具としての役割を与えられ、「このようなデザインなら便利でしょう?」とか、「こんなデザインなら欲しくなるでしょう?」と提案(プレゼン)するような形で展示されます。
しかしながら、ここにはそれがありません。「音が担える役割って何だろう?」、「道具とともに暮らすって何だろう?」。そんな疑問をそのまま疑問としてぶつけてくるデザインを見ていると、人は自ずと考えざるを得ないのです。
それは提案でも質問でもなく「問いかけ」とでも言いましょうか。デザイナーやクリエイターからの問いかけでもあり、デザイン自身からの挑戦のようにさえ感じてしまいます。
人がどこまで想像力を持っているのか、試されているような気分になるのです。
■インダストリアルデザインの原点
そんな展示の中でも、比較的具体性を持った「提案」を感じさせるものもいくつかありました。
それは「乗らないモビリティ」というコンセプトから生まれたデザインで、人の移動に自動で付いてくるカーゴキャリーであったり、自走式のランチボックスのようなものであったり。
当然それらも実現可能な技術の範囲から機能を提案しているようなものではなく、発泡スチロールを削り出して作られたただの造形物(モックとすら呼べない代物)です。
しかしながら、それ故に見ている側は自身の経験や知識や技術を思い出して総動員しつつ、そこに存在する「想像の余白」へデザインの存在理由をはめ込んでいきたくなるのです。
「のんびりと歩く人のペースに合わせて付いてくるキャリーカーとかエモいな」
「技術的にはBluetoothなどで可能だろうか。GPSは必要になるかもしれないな」
「人とぶつかったら危ないから尖ったデザインではダメだろうな」
「対物センサーとして超小型のLiDARも搭載したほうがいいかもしれない」
「そんなLiDARが安価に量産できるのはいつ頃だろうか」
「人のあとに付いてくるだけじゃなく、AIで人の話し相手になったりしたら楽しそうだな」
想像は尽きません。それが重要なのです。
私たちが普段手にする製品は、何もかもが「こう使ってください」と準備され指定されたものです。その通りに使わなければ破損したり、時には怪我をするリスクすらあります。
だから私たちは当たり前のようにそれを説明書通りに使い、安全へ配慮こそしても「これは何に使うんだろうか」などと考えることは稀なのです。
しかし、製品のデザインとは本来そのような始まりではないはずです。人が快適に生活できる空間を作る音とはどう生み出すべきなのか。人と人とのコミュニケーションをさらに円滑にする道具とはどんなものなのか。
そういったアプローチは、道具ありきでは始まらないはずです。空間を演出するならインテリアから考えるべきかもしれませんし、音響技術から考えるのもアリでしょう。壁の材質や室温だけでも居住性は大きく変わります。
NTTドコモのような「完成された道具を売る会社」が、道具の機能からではなく人の欲求からのデザインとは何かを問いかけてくるような展示を行ったことに、筆者は感銘を受けたのです。こんなアプローチのできる企業だったのか、と。
そのアプローチは恐らく、インダストリアルデザインの原点です。基礎や基本ではありません。もっと初歩的な、もっと原始的な、「こういうことをするのに必要な道具ってなんだろう?」という、デザイン以前のものです。
だから、そこに展示されていたものが道具に見えなかったのです。
少なくとも、上で紹介した「脇の甘さから生まれるおおらかな道具」と銘打たれた、キャンバスを乗せるイーゼルのような形をした素朴な模型が、プロジェクターをデザインしたものだなんて考えもしませんでした(前述画像の答え合わせ)。
■リデザインではない、ゼロベースのデザイン
では、NTTドコモのような企業がこういったプロミティブなデザインを考える意義とは何でしょうか。それは「次の時代のデザインを生み出す力」を取り戻すことにあると筆者は考えます。
通信技術の高度化と製品の高性能化は、道具の完成度(精密性)と多機能性を飛躍的に向上させた一方で、人々に想像させる余白の少ない、技術的にもデザイン的にも成熟した時代を生み出しました。
「このように使うと便利です」という提案や「こう使ってください」という指定・説明が道具を支配し、人がそれに従う。道具のデザインがもはや完成された製品の味付け程度のものでしかないことは、10年以上も基本的に代わり映えのしないスマホのデザインを見れば納得するはずです。
例えば、かつてスティーブ・ジョブズがiPhoneをデザインした時、それはデザインから入ったものではありませんでした。
「スマートフォンとは何か。一般的には電話とメールとインターネット、そしてキーボードだ。しかしこのスマートフォンはあまりスマートではない。そして使いづらい」
「普通の携帯電話は使いやすいが賢くない。(キーボード付きの)スマートフォンは賢いが使いづらい。基本操作を覚えるだけでも嫌だ」
「我々が望んでいるのは、どんな携帯電話よりも賢く、そしてもっと簡単に使えるものだ。それがiPhoneだ」
- 2007年のiPhone発表会、スティーブ・ジョブズのプレゼンより抜粋
今のスマホやタブレットのデザインを考える時、この視点は果たしてあるでしょうか。道具を使う側である私たちが「iPhoneのようなスマホ」ではなく、真に使いやすいモバイルデバイスをまっさらな空白から想像できるでしょうか。
NTTドコモがデザイナーやユーザーに求めているのはその視点と想像力です。そしてそれには想像の余白がどれだけあるのかが重要になります。
道具に使われるのではなく、道具を求める心を思い出して欲しい。あるいはそういった志のもとで生まれたデザインを見て、何かを欲して欲しい。
■次の未来を創るデザインのために
「十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない」とは、SF作家のアーサー・C・クラークが残した「クラークの三法則」の1つですが、科学が目指すべき未来はまさに魔法の世界であり、魔法の道具です。
その魔法の道具を想像(創造)する時、既存のテクノロジーや既存のデザインに縛られていては未来が創れません。スティーブ・ジョブズが当時としては魔法のような指先でのタッチ操作を実現したiPhoneを生み出したときのように、欲しいものを想像した先に思い浮かんだデザインが大切なのです。
想像の余白とは、つまりは可能性です。道具が高度化・先鋭化・成熟化し、人々の想像力を超えて便利になった結果、人々はそこに新しさへの期待や機能への渇望をやめてしまいました。
かつて携帯電話がガラケーと呼ばれていた時代、なぜ人々はあれほど携帯電話に熱狂していたのでしょうか。3ヶ月ごとに新機能が搭載されるという狂気の発展速度だけが理由ではありません。その発展が人々の想像力を刺激し続けていたのです。
製品とは、人々が「こんなものが欲しい」と渇望しなくては売れません。現在のスマホ市場がここまで停滞している理由は、人々が渇望しなくなったからだと言い切っても良いでしょう。
だからこそ、NTTドコモのような企業がデザインをリセットしたいと考えるのです。何かの道具の再設計や見た目だけを新しくした道具ではなく、人の欲求や期待から生まれる「本当のデザイン」を探究したいのです。
考えてみれば、テクノロジーの世界において道具の存在意義からゼロベースでデザインが考えられた製品はそれほど多くありません。
例えば最先端のPCでさえ、そのインダストリアルデザインは19世紀に商業生産が開始されたタイプライターから未だに脱却できていないのです。
iPhoneが起こしたようなデザインと発想のパラダイムシフトから遠退き、製品への渇望を欠いている現代だからこそ、私たちはデザインが持つ可能性を再確認し、道具をデザインする力を取り戻す必要があるように感じます。
記事執筆:秋吉 健
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